なんとかなる日々

なんとなく きげんよく のびやかに。

待つこと

このあいだミヒャエルエンデの「モモ」を読みました。(-2019.3.28 記事)

それから、そこにでていた時間泥棒のことが、なんだかいろいろと 考えの端に登場するんですよねぇ。

「効率よく」っていうのは、時間泥棒に時間をとられていることになるのかなぁ?
「手間暇をかける」っていうのは、たしかに、なんというか、一種の贅沢で、それがモノの価値に還元されたりしている。職人さんが時間かけたモノは高価ですし、骨董品なんかは時間が経ってるからこその価値ですしねぇ。AIが登場してヒトの仕事がなくなるという話題がありますが、これからの世の中は人が時間をかけるものがどんどん価値がでてくるんじゃないかと思ってる。たとえば、問い合わせの電話対応が機械音声じゃなくすぐ人につながるとか、飲食店で店員さんに丁寧に給仕してもらうのとか‥‥。あ、無意識に時間を通貨に換算してる‥そもそもそれが なんか違うかもしれんなぁ。

この間、スーパーのレジが混んでいましてね、ふと、モモがニノのお店で、レジ打ちしているニノと話をしたいのに、「ちゃんと列にならべ!横入りするな!」「後ろに並んでる者を待たせるな!」とつつきまわされて、二人がろくに話もできない場面を思い出しちゃったんですよね。並んでいる者にとっては、それって「普通」ですよねぇ。レジが早く進むと嬉しいし。これは時間泥棒に時間を盗まれているから? スーパーのレジじゃなく小さな商店(八百屋さんとか魚屋さんとか)でのお買い物だったらまた違う? いやいや、やっぱり待たされるのはあまりうれしくない。

ただ、早く進むのは嬉しいけれど、時間がかかることの不愉快さを前面にだして 周囲を焦らせるのは違うかなぁ。例えば、ゆっくりとしか動作できない状況のひとが、すぐ前で、後ろに気を使って焦ってはったりするときは、「そんな焦らんでも大丈夫ですよー」と言ってみたり、ちょっと距離をおいてゆっくり空間をおいてみたりはしています。

時間のことといえば、むかし、小学校の遠足の集合時間の説明で、先生に「1人が1分遅れたら、ここにいる100人の1分を使うことになります。ぜんぶで100分ですよ。」と注意喚起されたのが、子供心に衝撃でした。

受動的に「待たされる」ときは、自分のは時間をとられている感じがして、待つ間(他のこともできなければ)イライラします。
でも、能動的に楽しいことを「待つ」ときは わくわくするし、相手の出方を「待つ」ときなんかは、なんというか、自分の時間を相手に渡すことに対して特にイライラすることもないんですよね。あぁ、「待つ」って自分の時間をヒトに渡すことかぁ。 

寝起きにうとうとしながら「時間ねぇ」と思考を遊ばせていて、わたしは今現在、無職なので 決められた時間で生活する必要がなくて、目覚まし時計の音で慌てて起きなくてもよくてですね、これって贅沢よねぇと幸せをかみしめつつ、そういえば時計のない時代は、みんなどうやって仕事してはったんやろー、と思いました。
江戸時代の商家の使用人たちがそろって夕餉のシーンとかあるけど、どうやって時間そろえてたんやろう、城下町やったらお城の太鼓の音とか、お寺さんの鐘の音とかを合図にしてたんかなぁ。日の出と日没が合図なのかなぁ。地球の自転と星の動き‥「!」‥だからモモの「時間のみなもと」の表現が星なのか。と気づきました。いまさらです。

 


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