なんとかなる日々

なんとなく きげんよく のびやかに。

家族のありよう

赤毛のアンの放送9回目、心の友のダイアナができました。
いろいろと見方がかわって楽しめるアニメです。

アンがグリーンゲイブルズにおいてもらえることになった日、アンがマリラとマシュウになんて呼べばいいか尋ねるシーンがあります。
アンは身内がだれもいない、呼び捨てだと失礼な感じがする、と「マリラおばさん」と呼びたいと希望を言うのだけれど、マリラは身内ではないのに「おばさん」と呼べれたくない、とそれぞれ「マリラ」「マシュウ」と名前を呼ぶことになります。

子供のときは、マリラって冷たいなぁと思っていたのだけれど、彼女が「自分じゃないものの名前で呼ばれたくない」と自分の立ち位置をゆるがせないのに、なるほど、と今のわたしは素直に納得。

あと、子供のわたしは、一緒に暮らすことが身内(血縁?家族?)になるというイメージがあって、大人の男女と子供が一緒に暮らすのなら、それぞれ父(役)、母(役)、子供(役)というポジションになるのが幸せなのじゃないかと思ってたんですよね。それがデフォルトというか。でも、この歳になって、血が繋がらなくても家族になるし、ここ数年シェアハウスということばも浮上してきて、ドラマ「すいか」にみるように、背景の違う人たちが共に暮らすことで人生が豊になっていくのとか、モンゴメリはそんなことも考えて故意にこの設定にしたのだろうか、と思ってしまいます。

マシュウとマリラとアンの年齢的なことを考えたら、介護のこととか頭をよぎる。そもそも、マシュウの畑仕事を手伝わせるために男の子がほしかったわけだし。アンが11歳。進学してグリーンゲイブルズの家をでるまで4-5年なんですよね。
10代の4-5年と、30を超えてからの4-5年って、時間は一緒なのに、違いますねぇ。
いや、違うようにみえて、一緒か。
どちらもいろんなことがあるし、変るし、なんとでも変えられる。ただ、あっという間っていうのはわかってきてるかな。

 


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