なんとかなる日々

なんとなく きげんよく のびやかに。

こめられるもの

わたしの時間。わたしがこうと思う事を、さて、と思う時にやる。
それが繋がることで自己肯定感が培われて、どんと安定する。
それができないとイライラして不安定になっていく。
きっと安定してにこにことしていられることが一番大事。

頭で「こうするといいんだろうな」と思う事と、したいこと、ありたい姿が違う。
あとで後悔するかもしれないから、今しといたほうがいんいだろうな、と思われる事々。でも、なんか違うという感じ‥‥そんなとき優先すべきことは? これであってるんだろうか?という不安、というか迷いはいつもある。

いつも選択の連続で、何をどうするのか。
自分で自分の時間を選べるっていうのは、とても恵まれている‥んだろうか。
その「選択権」はできればずっと保持していたい。
それが正解かどうかなんて、誰にもわからない。おそらく自分にも。

誰かに「それで正解。あってるよ~」と背中を押してもらえると安心なの?かというと、そうでもない。

他人(自分以外)について心配することが心の寛大さ、というわけでもない。

とある番組で、1歳ぐらいの子供を育てながら義父(ちょっと痴呆?脳梗塞とかで身体が動かない)の介護もしていて、子供と義父が並んで食卓についていて、子供はなんとか自分でスプーンもってごはんを食べていて、義父にはその女性がスプーンで食事をさせてて、義父が「もう食べない、食べなければ死ねる」と言うのを、「なんでそんなこと言うの!隣に誰がいますか!あなたの孫がいます!そんなこと(死にたいなんていう言葉)を聞かせないで!」と叱りつけているシーンがあって、とても切なくなりました。その女性もいっぱいいっぱい。でも義父はきっと、お嫁さんであるその女性の負担になっているのが申し訳なくて、お孫さんと、そのお嫁さんのためにも、という思いがあったんじゃないかと思う。
口にすることばにこめられる想いは、何が本当のところなのかなんて、ひとにはわからないんですけどね。なんとなく、そんなことを感じました。

わたしの両親も高齢で、母はガンの再発で抗ガン治療中。通院の抗がん剤の点滴治療で、主治医のDr.には、大事にしすぎることなく、普段通りの生活をするようにと言われています。高齢とはいえ、独り暮らしではなく、これまで夫婦ふたりで暮らしています。娘としては家事支援の心づもりはしているものの、親とはいえ、私には私の暮らしがあって、共倒れとなることは避けたい。なんとなく、親の、自分たちの人生に巻き込みたいという思いが垣間見え、親を大事にしたい思いと、親に巻き込まれたくないという思いの狭間で、今は、どれぐらいの距離感がいいんだろうか、と逡巡しながら立ち回っています。親が「淋しい」と言うのは本音なんでしょう。でもその「淋しい」を埋めつくすことはできないよなぁ。それを埋めるのが親孝行というわけでもないだろうし。親のありかたを手本としてみつつ、きっと自分が年老いたときも「淋しい」と思うんだろうけど、それは、自分以外のひとになんとかしてもらうものじゃなくて、わたしがこうと思う事を、さて、と思う時にやり続けていくことで、満ち足りていくものだといいなぁ。


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