なんとかなる日々

なんとなく きげんよく のびやかに。

協力? 応援? 施し?

自分が困ってるときに、誰かが助けてくれるとありがたい。
「してもらって嬉しいことを相手にもしなさい」てのは躾のひとつかと思う。ほんとは「されて嫌なことは人にしなさんな」なんだけれど、これだと、人は自分に嫌なことをするっていうのが前提になっちゃうので「嬉しいコトを・・」のほうが言葉としてはよきかと思う。

で、困っている人を助ける、ていうのはちょっと気持ちよいわけで。これは高じると「共依存」てのに発展してしまう。共依存ってのは、自分が必要とされることで自分の存在価値を見いだすから、あえて自分が必要とされる状況を作るっていう質(たち)の悪いヤツで、無意識にそうなってることがあるから要注意なんだな。

それと、自分はいいことをしてる、正しいことをしてる、って大義名分のもとに人を袋叩きにしちゃうのも、これの逆方向のことかと思う。

雪と珊瑚と 著:梨木香歩 を読了しました。

20代の女の子がシングルマザーになって起業していくお話で、ま、お話なのでゆるいところもあるし、タナボタな展開、なんだけれど、なんたってお話なのでご本として楽しく読めました。そのなかで家賃の値下げに主人公がすっきりしないシーンがあって、

-施し、みたいに感じますか?
-そういうことなんだと思います。
-そう? 私にはあなたに対する尊敬もあると思うけど。
-同情です、まちがいなく~それを責めてるんじゃない、とてもありがたい、ただ、なんというか・・それに頼って生きていくような自分が嫌なんです。

ここで年配女性が「若草物語」を持ち出してくる。

四姉妹は楽しみにしていたものを差し出すことに、残念でならないと思ってもいるけれど、清々しい思いもする。欧米の国々の中には、自分たちがいつも施す側だと思っているところが多かった。やらなければという義務で、もくもくとやってきたにしても、正しいことをやっているという気持ちのよさがあることは否めない。自分たちが自己犠牲を払うことによって他者が喜ぶ、それを自分の喜びとすることで気持ちよくなるのか、優越欲求が満たされて気持ちよくなるのか、あるいはその両者は同じ一つのものなのか。

欧米の寄付の精神かな。

「ありがとうございます」とお礼を言いつつ施される側の人々が感じているのは感謝だけとは思えない。6割の感謝、2割の屈辱感、2割の反感、みたいなものではないか。けれど、それでも生きていかねばならない、その現実が彼らに頭を下げさせる。彼らに卑屈さを感じさせまいと余計に丁寧に接すると、そのことがまた、彼らの屈辱感を倍加させる。

確かになー、望んで施される側にたってる人は少ないだろうし、ありがたいけど、悔しいよなぁ。で、そこから、托鉢とか布施とか喜捨とかになっていくんだろうけれど。

施される側もいろいろ。施されてやってるんだ、おまえたちに善行をさせてやってる、と貰ってやるという態度の人や、当然の権利のようにもっともっとと要求してくる人もいる。

そうそう、もやもやするのよねぇ。寄付するにしても、それってどこにいくの? 難に使われるの?て不安がある。

文中では、ちょっと方向が変わって

受け取る側の人のプライドが一番試される、重要な瞬間になる。

となって、昔、領主の家柄の出身の女性に、寄付されたものを渡すときの話になって

花束を受け取るように、にっこりと、優雅に、”まぁ、ありがとう” と受け取るの、毎回。やりすぎたらかえって嫌味になって相手への攻撃になるような、微妙なライン。彼女はそこを完璧に心得ていた。わたしはいつも、極上のプレゼントを差し上げたような気持ちにさせてもらった。彼女のわたしへのねぎらい。ちょっとやそっと「施された」くらいで彼女のプライドはびくともしない。わたしを気持ちよくさせることが彼女の「施し」だったのかもしれない。

ほほう、なるほど、と思った。ある種の価値の交換。

助けてもらったときは、あれこれ考えずにまずは、そのときの嬉しい気持ちを素直に相手に伝える、てのが一番かな。

なんていうか、助けてもらわないといけない状況となってしまっていることに「ごめんなさい」が筆頭にあがってくるのよね。この罪悪感?はなんだろうなぁ。困ったときに「ねぇねぇ、こんなことになってるんだけど、なにかいい知恵はない?」と、トム・ソーヤのペンキ塗りみたいに、楽しいこととして、わいわいとみんなでやっつけていけたりするといいのになぁと思う。そういうのは、持って生まれた力なのか、あとから身につけることができるプレゼン力なのか、どうなんだろう。

にしても、そうか、相手に助けてもらったことを、施しとするのか、応援とするのかは、受け手(自分)次第てことだな。


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