わたしの中には、なんていうか、喪失感?なのかな、癒されない悲しみ、みたいな、諦め、みたいのがずっとあって、それってなんなんだろうってずっと探っています。
ものすごく怒っているのかもしれんと、見方を変えてみたりしたけれど、それはやっぱり怒りとは違っていて。
心理学では、怒りもまた、悲しみから派生する感情のようだけれど‥。
この「感じ」をとらえるのに、たくさんの言葉を書きとめたりしているのだけれど、たぶん、誰もが持ってるものなんじゃないかと思う。それをうまく言い得た本が直木賞とか芥川賞とかとるのかなぁ、なんて。
ただ、悲しみとか諦めっていう言葉にはなるけれど、それは、けして忌み嫌うものじゃなくて、いつか終わるものでもなくて、きっとずーっと自分の中にあって、さいごまでずっと一緒にいるものなんだろうな、と思う。
現代社会で「調子がいい」状態って、ほんの少し躁状態に傾いてる感じなんですよね。みせかけにしろ「機嫌がいい」状態でいることがマナーのひとつだったりもする。
ちょっと陽気な状態であるのが、自分も周りも安心、なんだけど、そうなれないとき、無理にでもそうなる必要があるのか、と逡巡します。悲しむ人をなぐさめるって?
で、この本。
きのこのなぐさめ 著:ロン・リット・ウーン 訳:枇谷玲子 中村冬美
ノルウェーのお話なんだけれど、著者はマレーシア人女性。社会人類学者。読んでいて、なんとなくシーナ・アイエンガーの「選択の科学」が思い浮かんだのは、やはり学者さんだからかな。職業はコンサルティングのようです。34年連れ添ったノルウェー人の夫が急逝して、その喪失と再生を、きのこ探求にあわせて書いてる、という異色のご本。
ご主人には
私が結婚生活で、出来損ないの妻でなく、私らしくいさせてもらえたと感謝できたことに、自分でもほっとしていた。
と書かれていて、なんとも素敵なご関係だったんだろうなぁ。
悲しんでいる人たちは、ことを収め、悲しみを鎮めるのに助けが必要だ。
と書かれているけれど
慰めの言葉が役に立たないとき、私たち‥慰めが必要なものと、慰めようとするもの‥はどちらも無力だ。
私の経験では、平凡な言葉に人を慰める効果などないに等しい。痛みの最良の癒しは何かなど私も知らないし、実際には何が必要なのかを言葉にはできない。
悲しみには、フィットネスジムのどのマシーンでも鍛えられない筋肉が必要だ。
ドライにユーモアも交えて書かれています。
私はよい友達に恵まれていたけれど、誰も私の荷物を変わりに運ぶことなどできない。
この一節で「他不是吾(たはこれわれにあらず)」が頭をよぎったのです。
助けはいるけれども、それは、自分でしか、自分で奮起しなければならないこと、なんだよなぁと。で、それは、負の感情にみえるものをゼロにするのではなく、なんというか、そこ(自分の中)にあるものとして認めて、抱きしめていくこと、なのかなぁと思います。
喪失感のこととあわせて、きのこの分類や、知識、経験則をどのように積み重ねるか、ていうのも興味深かったです。
ラテン語が大事っていうのは、フラワーエッセンスを勉強したときも教えてもらいましたし、フロー状態(ゾーンに入るとか忘我とか)のこととか、匂いの章では、アロマとか香水とかワインとかと比較検討してて。きのこの写真もいっぱいのってます。
すごく面白いです。