なんとかなる日々

なんとなく きげんよく のびやかに。

淡々と生きる 般若心経

淡々と生きる 著:小林正観 を読みました。

ブログ記事で目にして図書館で。
作者は2011年没。本書の初版は2012年。このご本が最後の作品なのかな。でも、たくさん執筆されてたようなので、最後の作品っていうのとは違うかも。
長く患ってらして、死を目前に意識されている。だからこそのこの書名。

いつ死んでもいい、生きることに執着はない、という状況で、正岡子規
「悟りとは、平気で死ぬことではなくて、平気で生きること」ということばを知って、つべこべ言わずに淡々と生きる、となる。

ご本人は大学で超能力研究倶楽部に所属。全共闘時代の人。
正観というお名前からお坊さんとか宗教家の方かと思っていたのですが、研究者?なんだろう、講演とか執筆を生業とされてたようですね。
本に書かれていることは、わかりやすくて面白い。

般若心経の意訳が、わたしにはとてもわかりやすかった。いろいろと目にはしてたのだけれど、なるほどなぁ、と。この意訳と漢字とひらがなをならべて唱えると、やっとすとんと落ちてきました。とてもおもしろいです。

お釈迦様いわく、人間の「苦」とは「思いどおりにならないこと」。
だから「思い」がなければ「苦」もないんだけど、その「思い」っていうのは

「思い」がないというのは「治らないほうがいい」と思ってるのではありません。「なんとしてでも治したい」とか「元気になりたい」という「思い」がない。「元気にならなくてもいい」という思いもない。「死んでしまいたい」という「思い」もない代わりに「生き延びるぞ」という気力もないのです。自分の中に「思い」がない。寿命がきたら、死ねばいい。「まだ生きなさい」と言われているのなら、生きる。思いや根性は不要。

で「淡々と生きる」となる。

「思い」がなくて生きていくとはどういうことか。
「やる立場になったら、やればいい」

おぉ、なんかドラマの「スーパーサラリーマン左江内氏」が頭に浮かびました。このドラマも最初は、なんだこの主人公、と思うのだけど、どんどんかっこよくなる、というか、見ていてラクになるというか。藤子・F・不二雄原作なんですよねぇ。

喜ばれる存在であることが人生、とかね。
天皇が毎年元旦に四方拝をなさっていることが書かれていて、なぜか、そこを読むと涙がはらはらと流れてとまらなかったのですよ。なんでしょうね、悲しいとか嬉しいとかじゃなく、なんだろう、ことばにするなら、ありがたいなぁ、という感情かな。それで涙って、どぉなってるんだ、わたしの身体。
お釈迦様のことば(般若心経)には、すべては「空」とある。空は無じゃないんだなぁ。
わたしが、その「空」を知る(悟る)には「空じゃない」ことを知らないと、わからないんじゃないかなぁ。公共交通機関や電気ガス水道が止まって初めて不便さを知ってそのありがたさを知る、みたいな。
だからこその、悟ってない今現在?
悟るために「ない」とはどういう状態かを身をもって知るために、今生を生きている? あれ? 本末転倒? あかん、むずかしい。

 


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