哲学者 宮野真生子と人類学者 磯野真穂の書簡が本になったもの。
宮野氏の癌闘病に沿って書簡がやりとりされていきます。
おふたりとも2000年に大学卒なので、わたしよりも10ぐらいはお若い。
わたしからするとお若いけれど、おふたりとも准教授で、言葉を扱う学者として、ものすごく興味深い内容を語られている。うん、学者さんだ。
アイエンガーの「選択の科学」ていう本があるのだけれど、その中で、高齢の親から運転免許と車のカギをとりあげる選択をあなたはできるのか?とか、家族の延命治療の最後の選択は?とか書かれてた。
このご本でも「選ぶ」とは、についても、書かれていて、
病院で「正しい情報に基づく、患者さんの意志を尊重した支援」をされるが、情報が氾濫しているなかで、患者は自分の意思を、何をどう選んで決めるのか。
宮野氏は「選ぶの大変、決めるの疲れる」という状態に追い込まれる。
合理的に比較検討して「選んで」決めたって「かもしれない」はついてまわる。宮野氏は結局、選ぶという能動的な行為じゃなくて、腑に落ちて自然に「じゃぁお願いします」と言葉がでたところに落ち着かれる。
選ぶとは能動的に何かをするというよりも、ある状態にたどり着き、落ち着くような、なじむような状態で、それは合理的な知性の働きというよりも快適さや懐かしさといった身体機能に近いのではないか、そして、身体感覚である以上、自分ではいかんともしがたい受動的な側面があるのではないか
そして、選択とは
分岐ルートのいずれかを選ぶとは、1本の道を選ぶことではなく、そちらに入ることによって、また新たな可能性を無数に引き受けたということを意味するにすぎない。
と書かれていて、
〇〇な人だからxxを選ぶのではなく、xxを選ぶことで自分が〇〇であることが明らかになる。偶然を受け止める中でこそ自己とよぶに値する存在が可能になる。
いやぁ、哲学者。
自分とは何か。
おそらく、これまでの選択の数々が積み重なって、いまのわたしになっている。
としたら、これからの選択がわたしを作っていくことになる。
進路も就職も日常も恋も結婚も。すべてが選択の連続。
好きなものに囲まれて暮らそう、断捨離とかミニマリストのこととか、トランサーフィンとか、じんわり根っこはつながってるよなぁ。