なんとかなる日々

なんとなく きげんよく のびやかに。

お花と人恋しさと

生け花を習いに行きたいなぁと、年に何回か思うのですよ。
駅近にちょっといい感じのところを見つけていて、そわそわして、でも、そのお月謝分だけお花を買えば、いいお花をがっつり買えるよなぁと、変な計算をしてしまって今だに行かずじまいです。

母が未生流の師範免状をもっています。生徒はとってなくってお免状(看板みたいなの)が内玄関に置かれてるだけなのだけれど、家の中にはいつもいい感じの花が活けてあって、少ぅしだけ手ほどきしてもらった記憶がある。母曰く、母娘で子弟にはなりたくない、らしい。小学校のときは、お花係で庭に咲いてるお花とか、おかあさんが生けるのに買ってきたお花をわけてもらって、よく学校に持って行ってた。高校に入学したとき、クラスメートが、自分だけだと部員1人だと泣きついてきて、じゃぁと友達をもう1人さそって華道部に入りました。すでに先輩もいなくて、総勢わたしたち1年生の部員3人。じゃんけんで、部長、副部長、会計を決めたら、じゃんけんに負けてわたしが部長になりました。ほほほ、これでも華道部の部長だったのですよ。1年生のとき部員3人だったのを、卒業するときは20人ぐらいにした。勧誘、がんばったわぁ。流派は未生新流で、90歳ぐらいのあごひげをはやした仙人みたいなおじいちゃん師範が毎週教えにきてくれて、ものすごくおもしろかった。そういえば、当時は毎週はがきを書いて、いついつ教えにきてください、と投函してました。電話は耳が遠いとか・・で、でもそれで、時候のあいさつとか図書室で調べて、手紙の書き方とかも習得できてたんだな。当時、わたしは生徒会なんかも入っていて、ブラスバンド部との兼部もしてて、ばったばったの日々だったのだけれど、花器に剣山をいれて、その、すっと花にむきあう時間が、なんとも自分の軸がもどっていく感覚というか、ものすごく気持ちよかったのが忘れられない。無というか・・花材をひとつひとつ見て、形をみて、そのバランスをとりながら剣山にさして・・・こうしたい、と思ってもその通りにはなかなかならなくて、花の持つ姿にこちらが添うことでしか成り立たない美というか、かけひきというか。そうするうちに、自分の中がすーっと静かに落ち着いていく感じ・・・きっとこれって、日本のいろんな「道」とつくおけいこごとに共通するものじゃないかなぁ。

この9月から、やっと仕事として始まった対面でのヒアリングセラピーで、あぁ、わたしは、こんなにも人が好きなんだなあと、しみじみ思うのです。
コロナ禍で、ほんとに対面で人と話していない。

お花を習いにいくことで、この自分のなかのざわざわしたものを沈ませて、仕事とはまた別に、それをきっかけに人に会うことが、今、やりたいことなのかもしれない。

あ、こういうのがもしかして、芸術の秋?


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