なんとかなる日々

なんとなく きげんよく のびやかに。

「怒り」をつかまえないと、もったいない

あー、なんかやってしまったかもしれない‥ と思う事多々あり。そのときに気づけなくて、振り返って「あ!(/ω\)」となるんですよねぇ。ほんま、もうちょっと うまいこと やれるようになりたいと思います。おそらく周囲は私が思うほど気にしてはらへんとは思うんですけどね、なんか一人で(軽く)落ち込んだりします。顔に手をあてて、布団の上で「あーーーっ」と言いながらゴロゴロしたりね、そんなことしてたら陽も高くなって、すっかり朝JOGをのがしてます。 

なんか気晴らしになるような文章はなかったかなぁ、とごそごそしたら、むかぁし読んだ本のメモが目に入りました。「怒る技術 著:中島 義道」。日付をみたら2010年って‥ほぼ10年前だ。えっと、このご本は、

日本文化の根っこには「怒る」のはNGっていうのがあって

怒ることが出来ない者は、すべて自分が悪いのだとういう方向にもっていってしまう‥誰かが怒りそうになるとみんなでそれを必死になだめようとする。怒ったらもう負けだと非難の目がむけられる‥怒るには技術が必要で、技術を修得することは容易なことではない。

たしかに「怒り方」って修得してないんですよ、わたし。だから、こんなに内にたぎらせてしまうのかなぁ。

弱みを見られないように‥ひとからひどい仕打ちにあったとき、不快感をいっさい隠しておく。あたかもなんともなかったかのようなふりをする。なぜなら、動揺することは負けを認めること、自分のプライドを傷つけること、自分の弱点を相手にさらけだしてしまうことだから。

そうなんですよね、弱いとこ見せたら「よけいやられる」て思ってる。どんなに犬が怖くても背中を見せて走ったらあかん、てね。
そもそも「怒り」ってどんなもんかというと、

身体に密着した感情。ぶるぶると身体が震えてきたり、頬が紅潮したり、歯を食いしばったり、心臓の鼓動が早くなったり、目つきが鋭くなり目が据わる。攻撃性を含み持つ感情であり、具体的に相手を攻撃しないまでも、身体の全体がすでに攻撃の準備段階に入っている、そんな感情。

ふだん自分は「怒らない」って考えてても、ほんとは、たくさん怒ってるんだと思う。「怒り」までいかない「不快感」はたくさんある。

赤ん坊は、怒りとか憎しみとか恨みとかの感情っていうより不快感に敏感で正直。「怒り」は不快感から発生するもので、その不快感をちゃんと大切に「怒り」の感情にまで育てないといけない。

不愉快な思いをしたときは、無理にでも「シメタ」と心の中で喝采する。怒りを育てる貴重な機会があたえられた。「みんな自分が悪い」という自責はただの怠惰であり、ひたすら目前の不快感から逃げるためのものだと自覚すること。「全部自分が悪い」というのは一番簡単であり、一番ラク。実は一番自分が傷つかない方法。人は弱く、そしてずるい。自罰的感情が習慣化され、感情は干からびる。

まず、この「シメタ」と思う段階で、十分冷静ですよね。自分を客観視できてる。これが、そんな簡単にできないんだなぁ。

怒りの銃口は自分ではなく他人に向けること。
 :
怒りの中にも人生の恐るべき豊かさは潜んでいるのだから、これを切り捨てるのはたいそうもったいない。

 「怒り」の中にある 恐るべき豊かさって どんなん?。著者も「たしかに怒らないほうが得である」と明言してるんだけど、それでも「怒る」ことは、人生が豊になると断言している。

正しい怒りはない。‥いかなる怒りも絶対的に正しくはないからこそ、怒っていい。

「怒り」は適度に放出することが必要で、相手に直接伝達できなくても、放出自体に意味があるから、「さしあたり適当な他人に怒りを表明してもいい。」って‥これ、迷惑な人ですがな‥

飲み屋で同席した赤の他人でも。
自分の怒りに対する同意をうわべだけでも獲得すれば、随分気が楽になる。自分の怒りが複数の他人によって承認されることがその人を相当救ってくれる。
逆にいうと、だれも自分の怒りを承認してくれないとき、怒りは手のつけられないほど燃えさかる。言葉による放出でなくても、大声で怒鳴っても、身体がくたくたになるまで走ってもいい。‥でないと、怒りが嫉妬・羨望・軽蔑・偏見・被害妄想・劣等感・恐怖心 と結びついた混合物となっていく。

これも、承認欲求のひとつのかたちかなぁ。ちゃんと自分の感情を肯定していかないと、こじれていくよ、てこと。 ただ、「怒り」を放出すると、それなりに返礼されるから覚悟してね、って。修行なんだって‥

相手の語る内容を承認しなくてもいい。ただ、相手が「語ること」それ自体を承認する。怒りのコミュニケーションを成立させる。
双方の怒りを抑えて「歩み寄る」のではない。
相手がいかに怒ろうと、自分の怒りを極力抑えて解決にいたるという自虐的なコミュニケーションでもない。
怒りを露出し、相互に理解する。
相手と仲の良い状態を保つということではない。

「なかよし」になることは、小さいときから叩き込まれているけれど、そうじゃない関係をつくるって、すごく難易度が高い。歩み寄るのでも、解決させるのでもない。ただ、理解する関係。

関係を断ちたい人であっても、そういう人であるからこそ、正確に自分の怒りを伝え、相手の怒りも受け止めて、なるべく違いを認識し合おうという美学。

美学なんだ‥

怒ったふりをする技術。
自分の怒りに呑みこまれないこと。
冷静に怒りを計量しながら爆発すること。

これが難しいんやんねー。アサーションも勉強して、その効果もすごいと思ってるけれど、そういうのだけじゃなくて、人生には物理的に怒りを表現することも時には必要なのよ。ほんまこれ、難しい。

人生において自分にふりかかるあらゆる災いは、適当に逆利用して人生の糧にするに限る。

みんないつかは死ぬ。そう考えると、みんな抱きしめたくなるほど愛おしくなる‥あくまでも、思うだけ。

そう、誰かがいるから「怒る」こともできるわけで(笑)
で、朝、布団でゴロゴロしたわたしの不快感は「怒り」に昇華するものなのか‥いや、ただただ、自分のあかんたれ具合ですね、やっぱり。へなちょこやわ~。


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