なんとかなる日々

なんとなく きげんよく のびやかに。

「喜び」をつかまえて‥

朝って、ちょっとポジティブになります。今日はなんとか朝JOGも敢行、ちゃんとできた感により、自分イケてる感があがります。テストステロン効果かもしれない。でね、昨日の記事を読み直していて、これ、「怒り」を別のことばに換えると面白いかも‥というので、やってみました。はい。自分パロディです。 

 

「怒り」の反対語は「笑い」なんだけど、ここはひとつ「喜び」に換えてみた。

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喜ぶことが出来ない者は、すべて自分だけがええんやとういう方向にもっていってしまう‥誰かが喜びそうになると喜べない者はそれを必死にとめようとする。喜べば人生に勝っていると祝福の目がむけられる‥喜ぶには技術が必要で、技術を修得することは容易なことではない。

 たしかに「喜び方」もちょっと難しいかも。だから、こんなにもぞもぞてしまうのか‥。

弱みを見られないように‥喜ばしいことがあったとき、その快感をいっさい隠しておく。あたかもなんともなかったかのようなふりをする。なぜなら、動揺することは自分の勝ち(他者の負け)を認めること、自分のプライドが満たされること、そのことで、自分の弱点を相手にさらけだしてしまうことだから。

 そうなんですよね、弱いとこ見せたら「足もとすくわれる」て思ってる。どんなに犬が好きでも走り寄ってなでたらあかん、てね。
そもそも「喜び」ってどんなもんかというと、

身体に密着した感情。ぶるぶると身体が震えてきたり、頬が紅潮したり、大口で笑ったり、心臓の鼓動が早くなったり、目つきが緩くなり、目じりがさがる。放射性を含み持つ感情であり、具体的に相手を巻き込まないまでも、身体の全体がすでにはじける準備段階に入っている、そんな感情。

 ふだん自分は「喜べない」って考えてても、ほんとは、たくさん喜んでるんだと思う。「喜び」までいかない「愉快」はたくさんある。

赤ん坊は、喜びとか愛しさとか感謝とかの感情っていうより快感に敏感で正直。「喜び」は快感から発生するもので、その快感をちゃんと大切に「喜び」の感情にまで育てないといけない。

愉快な思いをしたときは、無理にでも「シメタ」と心の中で喝采する。喜びを育てる貴重な機会があたえられた。「みんな自分のせい」という自責はただの怠惰であり、ひたすら目前の快感から逃げるためのものだと自覚すること。「全部自分が良い」というのは一番簡単であり、一番ラク。実は一番自分が傷つかない方法。人は弱く、そしてずるい。他罰的感情が習慣化され、感情は干からびる。

 まず、この「シメタ」と思う段階で、十分冷静ですよね。自分を客観視できてる。これが、そんな簡単にできないんだなぁ。

喜びの銃口は自分ではなく他人に向けること。
 :
喜びの中にも人生の恐るべき豊かさは潜んでいるのだから、これを切り捨てるのはたいそうもったいない。

 「喜び」の中にある 恐るべき豊かさって どんなん? たしかに「やたらめったら喜ぶもんじゃない」んだけど、それでも「喜ぶ」ことで人生は豊になる。

正しい喜びはない。‥いかなる喜びも絶対的に正しくはないからこそ、喜んでいい。

 「喜び」は適度に放出することが必要で、相手に直接伝達できなくても、放出自体に意味があるから、「さしあたり適当な他人に喜びを表明してもいい。」って‥これ、ちょっと迷惑だけど、好かれる人ですな‥

飲み屋で同席した赤の他人でも。
自分の喜びに対する同意をうわべだけでも獲得すれば、随分気が楽になる。自分の喜びが複数の他人によって承認されることがその人を相当救ってくれる。
逆にいうと、だれも自分の喜びを承認してくれないとき、喜びはどんどんと冷えていく。言葉による放出でなくても、大声で歌っても、身体がくたくたになるまで走ってもいい。‥でないと、喜びが称賛・羨望・尊敬・客観・リアル感・優越感・安心感 と結びついた混合物となっていく。

                   ※混合物を考えるのはちょっと難しかった。

これも、承認欲求のひとつのかたちかなぁ。ちゃんと自分の感情を肯定していかないと、こじれていくよ、てこと。 ただ、「喜び」を放出すると、それなりに返礼されるから覚悟してね、って。修行なんだって‥

相手の語る内容を承認しなくてもいい。ただ、相手が「語ること」それ自体を承認する。喜びのコミュニケーションを成立させる。
双方の喜びを抑えて「歩み寄る」のではない。
相手がいかに喜ぼうと、自分の喜びを極力抑えて解決にいたるという自虐的なコミュニケーションでもない。
喜びを露出し、相互に理解する。
相手と仲の良い状態を保つということではない。

「なかよし」になることでも、歩み寄るのでも、解決させるのでもない。ただ、理解する関係。

関係を続けたい人であっても、そういう人であるからこそ、正確に自分の喜びを伝え、相手の喜びも受け止めて、なるべく違いを認識し合おうという美学。

美学‥

喜んだふりをする技術。
自分の喜びに呑みこまれないこと。
冷静に喜びを計量しながら爆発すること。

ほどよく「喜び」を表現する。人生には物理的に喜びを表現することも時には必要。でも、そんなのはいつだって、わざとらしさ満載。

人生において自分にふりかかるあらゆる幸いは、丁寧に利用して人生の糧にするに限る。

みんないつかは死ぬ。そう考えると、みんな抱きしめたくなるほど愛おしくなる‥あくまでも、思うだけ。

 置き換えるてみると、「怒り」も「喜び」も自分にわきおこる感情でしかない、てことがわかってくる。いい、悪い、じゃない。どちらも同じように、愛(め)でたいです。‥でも「怒り」を愛でるのは、やっぱり難しいと感じるなぁ。


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