なんとかなる日々

なんとなく きげんよく のびやかに。

地震の記憶

1995年1月17日 朝5時46分。今から26年前。

その日わたしは実家で、夜中未明から腹痛に襲われていて、まるまったエビ状態から動けず、母の運転で救急病院へかつぎこまれていました。
たしか胃腸炎だったかな、病名はよく覚えてなくて、痛み止めとか点滴をしてもらって、入院するほどでもないっていうので、帰宅したのが朝4時ごろ。それから、居間で石油ファンヒーターをつけて、母もそのまま起きてて、わたしはこたつで息も絶え絶えに横たわってた。

そのとき、ドンッ!て下からつきあげるような揺れがきて、そのまま「ガタガタガタタッ」と横揺れがものすごく長く続いた。鴨居にかけてあるうちの親戚(ルーツ)の写真とか、竹を刺繍した母の工作額とか、あれやこれやが落ちてくるんじゃないかと、私が頭をかかえてた横で、母がタタタタッと這うようにして石油ファンヒータのことろまで行って、そのスイッチを切った逞しさに「すごっ」と思った。「そうよね、火の元、基本だわ、そうよ」と思いながらも、なすすべもなく、横揺れがぜんぜんおさまらなくて「もう勘弁して~」と悲鳴をあげた記憶がある。それぐらい長く揺れていた体感だけれど、記録とかみると最初の揺れは20秒。そのたった20秒の揺れで神戸の街は壊滅状態になりました。まぁ言ってみればちゃぶ台ひっくり返されたのと同じですよね。実家はなんとか倒壊はせず、室内のあれやこれやがぶん投げられた状態であ然。父が棚にコレクションしてたウィスキー(瓶の半分の中身は母作の梅酒)も砕けて床一面ガラス。後日、箪笥の引き出しから、箪笥の上に置いてあったものがでてくるという不思議も発生。たぶん、揺れて引き出しひらく→上のものが落ちる→引き出しがしまる、だったんだろうなぁ。

その夜(朝)電気が消えた記憶はない。うちのあたりが一番揺れた(ひどい)と信じていたのに、翌朝のテレビは火の海の映像で愕然としたから、停電はしなかったんだな。いや、そのあと何日か停電したか‥電気がついて「わぁーっ」て言った記憶もある。水だけが長い間でなかったので、井戸水がでていた近所の学校や、水道局まで車で行って、車につめるだけのプラスチックの衣装ケースに水をもらってきて、電動ポンプ(ふろ水を洗濯機で使うように使ってた)で家内に汲み上げて、重い水を自力で持ち上げなくてすむようにしてたのは両親の知恵。

車のガソリンはできるだけ満タンにしておくこと。

それから数日余震が続いて、ヘリコプターが上空を低く飛ぶもんだから、その音すらも怖かった。音って振動するんですよ? テレビでターミネータをやっていてその炎の映像がものすごく怖かった。

記憶をことばにすると 怖かった になるな。

26年後の今日。なぜか昨夜から、しくしくとお腹が傷みます。
なんだろう、この日には腹痛って暗示にでもかかってるんだろうか。
こたつで大人しくしています。


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