なんとかなる日々

なんとなく きげんよく のびやかに。

人の話なんて聞ぃちゃぁいない

著:内田樹の「死と身体」からの思索のつづきです。
コミュニケーションとして「ことば」とか「音」とか「メタ・メッセージ」に続いて。

普段から思っているのですが、会話というけれど、「語られているコト」について話しがされてることってほんとに稀で、たとえば電車でおばちゃんたちが、自分の言いたいことだけしゃべって、相手の言う事に対して「ふんふん」と返事しておきながら「そんでな、わたしな‥」とまた自分の話をするという、横で聞いていると まったくかみあってない(と思えても、当人たちはすごく楽しそう)というのがよくあります。

このご本では、ジャック・ラカン (仏 フロイト読解している精神分析家 1901-1981)の引用から考証されていました。

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わたし(患者)が言葉を語りつつ求めているのは、他者からの応答である ~ラカン

カウンセリングのときの分析家の仕事は、患者の告白について「あなたの話した"自分についての物語"にわたしは同意署名する」と公共的な承認を与えること。

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被分析者(患者)はいろいろなことを語る。「ぼくはこんなことを経験した。こんなことを思っている」。でも、その人の身に起きた「ほんとうのこと」を語っているのではない。ぼくたちは誰も自分の身に起きた本当のことなんか語れない
          この部分 ↑ なんて、羅生門みたい。
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ことばはいつも「語りすぎる」か「語り足りない」かどちらかで、語った言葉が「思い」を過不足なく「表現」するというようなことはけっして起こらない。
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わたしたちは一生懸命にしゃべりながら、自分が何を言いたいのかを探り当てようとしている。自分が口にしたことばを聞きながら、自分が何を考えていたのかを事後的に知る、という方法でわたしたちはことばを発している。

「わたしが本当に言いたいこと」が「ことば」を呼び寄せる。磁場のようなものがあって、わたしたちの言語活動を起動させている。
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人間って、人の話の内容なんか、たぶん聞いていない。話している本人が自分のしている話にどれくらい興味をもって、どれくらいドキドキしながら「自分自身の思考の流れ」を追っているのかに、聞く人は反応しているのではないか。
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あなたがたは他者のことばを少しも聞いていない。あなたがたが聞くのは、あなたがたが聞きたがっていることだけだ。あなたがたは自分が思っていることを自分自身に向かって、たとえば「ラカンはこう言った」として言い聞かせているだけ。これを読んでいるあなたも、わたしからのメッセージだと思って、自分が発信したメッセージを逆向きに読んでいるだけなのだ。~ラカン

 

おもしろいでしょ~。
本を読んだり、歌を聴いて、自分の「気持ち」に響くっていうのは、自分の「気持ち」を表現する「ことば」としてぴったりだ、てことなんだろうとは思ってたんですよね。自分の想いや考えを表現するのにぴったりな「ことば」を探すのに、わたしは本を読んだりしてる。

てことで、わたしにヒットした文章です。おなかいっぱいかもしれませんけど、おもしろかったので、まだちょっと続けます。 


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