なんとかなる日々

なんとなく きげんよく のびやかに。

「ことば」の「音」、会話は交換。

はい、「死と身体 著:内田樹」を読み込んでおります。最後まで読んだんですけど、私が思っていた、占い的な "死んだ人とコンタクトをとる" というのんじゃ なかったです。ほほほ。えっと、人類学的に、人間の定義のひとつとして「葬儀」をすることをあげていて、葬儀っていうのはね‥‥というお話でした。でも、おもしろかったんですー。

この著者の専門がフランス現代思想ってこともあって、哲学やらなんやら、ちょっとわたくしてきには、こんがらがりまくりでして。なんで、この話題から、この話題に展開するのぉ \(・・/ ? と、論点のつながりがまだ消化しきれておりませんが、要所要所の(自分が)おもしろい!と思ったところは掴んでおります。

まず、コミュニケーションとは、てことを書かれていて。
会話っていうのは「ことば」を双方が理解することで成り立つんだけれど、その「ことば」の”音”に、まずは焦点をあてていて。発した「音」が、意味がわからなくても、相手にむかって発せられたものであれば、コミュニケーションの開始で、相手がその「音」を自分に対して発せられたものだと承認して、その反応として、相手がなんらかの「音」を返すことで会話が始まるんですって。この本の例文は太古むかしの原人だったんですけど、これ、現在、外国の人との会話でもそうですよねぇ。
で、発する「音」を「贈与」と表現されていました。「ことば」が「音」の贈りもの というのは、いいなぁと思いました。

でね、「あべこべことば」というのがあって、たとえば ”適当” ということばにも相反する意味があるのだけれど、会話の中で、その意味を取り違えないのはどうやっているのか?というと、文脈から判断したり、相手の音声とかタイミングとか表情とかで、判断してるんだけど、こんな風に、メッセージには解読しなくちゃいけない「メタ・メッセージ」というのがあって、普段のコミュニケーションでは、そのメタメッセージのやりとりをばんばん無意識にしてるんですよね。人は「語」を一義的な意味としてじゃなく、その「語」に含まれる意味のレベルの違いを読み分けていて、幼児期からこの能力の開発を集中的に訓練されている。この訓練をつまないかぎり、社会生活を営むことができない、と書かれてました。

で、なんでこんな誤解が発生するであろうシステムが、日本だけではなく、世界中のあらゆる文化で連綿と続いているのかというと、どっちにとれるかわからないことを、双方で共通認識できたときに、むちゃくちゃ嬉しいから、ですって。この感動を味わうために、わざわざややこしいままになってるんとちゃうかー、という論でした。わたしなんか、読み違えてイタい思いを いっぱいしてますけどねぇ。

-----以下引用 ----
例:「ねえ、あなたも行く?」
そのとおりの誘いなのか、あなたに声をかけるぐらいあなたの気分に配慮しているんだから ”あなたなんか来てほしくない” というわたしの気分にも配慮してね、という意味なのか、子供でも瞬時に判断しなくてはいけない。
 「ううん、やめとく」
という返事が、適切なタイミングでないと "あなたとなんか行きたくない"とか "わたしに変な気を使っていい人ぶるのやめれば" を伝えてしまうリスクがある。
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 「音」を「ことば」にして交換する。それが会話なんだけど、会話だけじゃなく、この「交換」っていうのが人を人たらしめている行為で、人は「交換が大好き」なんですって。たしかに、思い当たるふしがあります。

で、このあと、経済活動のこととか、時間が伸縮することとか、倫理のこととかに展開されていきます。いろいろと難しいことが書かれているのだけれど、「なんでそんなんなん?」という問いの答えが、ほぼ「感動するから」「愉しいから」ていうのがいいです。

わたくしにヒットしたポイント、たくさんあるので、またUPしていきます。


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