なんとかなる日々

なんとなく きげんよく のびやかに。

名前と自我

2-3歳ぐらいになるまで、ヒトは「わたし」と「わたし以外」の境目が曖昧です。
生まれたばかりの赤ちゃんには名前がなくて、周りに名前をつけてもらって、その名前で呼びかけられることで、「わたし」が〇〇という名前であると理解して、「わたし」と「わたし以外」との違いがあると わかり始めます。そこには「わたしのもの」と「わたしのではないもの」の違いもでてきます。文字通り、分別がついて、大人へとなっていきます。

子供のとき、おかあさんに〇〇という名前があることを知って、とても驚いたのを覚えています。「お母さんは、わたしのおかあさん というだけじゃなくて 〇〇という人なんだ」と気づいたときの、寂しさというか衝撃というか、母を自分とは違うひとであると理解したときの衝撃は、今もって忘れられない。

人の名前には願いというか、祈りがたくさんこもっていて、文字やその音の響きに、たくさんの力がこもっていると思います。名があることで力を増すというか。

そして社会で暮らすには、ヒトにはどうしても「役割」がくっついてきて、それは家族の中での子であったり親であったり兄弟姉妹であったり、世の中での友達であったり、師弟であったり、働く人であったり、働かない人であったり、上司、部下、先輩、後輩‥‥ありとあらゆる「役割」があります。「なまえ」と「役割」とはずしたものが、きっと素の自分なんだろうなぁと思うのだけれど、その2つ(なまえと役割)をはずした自分を想像するのはとても難しい。そこにはただただ、好き嫌いとか 快・不快 とかが残るのかなぁ。

「素」の自分と「役割」との不一致が大きなストレスのもとらしいのですが、その不一致というか、「役割」はこの世で生きていく上では必要なものだから、なくならなくて、その一致感とか、不一致感が 自分が思ってるのとずれてないことを確認するのが他者からの承認欲求だとか。
他者がどない見てようが、自分が 自分の「あぁ、ちょっとずれてんなぁ」てことに気づければ、ストレスは 大分とましになってきます。
気づいたところで、できること、できないことありますし、あえてそのずれを補正しようとわざわざ取り組まなくても、なるようになっていくので、力抜いて、「あはは、こんなんなってるしー」と、その状況(境遇)さえもちょっと楽しんで、「こんなもん、こんなもん、自分よぅやってるわぁ、不思議かもしらんけど あれこれなるようになっとって、これでええねん。ほんで自分がえぇように これからなっていくから」としてるのが正解なんですって。

 


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